大阪地方裁判所 昭和47年(ワ)2197号 判決 1982年8月19日
原告
亡西田昭五訴訟承継人西田幸子
原告
西田泉
原告
西田一毅
右両名法定代理人親権者
西田幸子
右三名訴訟代理人
西田温彦
被告
国
右代表者法務大臣
坂田道太
右訴訟代理人
川本権祐
右指定代理人
篠原一幸
外七名
主文
原告らの各請求を棄却する。
訴訟費用は、原告らの負担とする。
事実《省略》
理由
一診療契約
原告西田幸子が亡西田昭五の妻、原告西田泉、同西田一毅が右夫婦間の実子であること、被告が宇多野療養所を設置し、管理していること、昭五が肺結核に罹患し、昭和二九年五月一九日宇多野療養所との間で肺結核の治療を目的とする診療契約を結び、同日同療養所に入院したことは、当事者間に争いがない。
二診療の経緯
1 昭五は宇多野療養所でストレプトマイシン、パラアミノサルチル酸ナトリウム(以下、パスという。)、の抗結核剤の投与による化学療法を受けていたが、昭和三〇年二月八日当時同療養所に勤務していた外科医長の香川輝正医師と主治医の鹿島栄造医師によつて病巣のある右肺上葉および下葉を切除する手術を受けたこと、この手術の後右肺上葉、下葉を切除した際の気管支切断縫合部に気管支瘻が発生したこと、同年三月一五日両医師によつて右肺中葉を切除摘出して右気管支瘻発生部位より中枢側で主気管支を切断縫合する手術が行われたが、昭五は同月二六日喀痰、喀血したこと、昭五に食道穿孔(瘻)が発生し、両医師は同年八月二日昭五の前胸壁をくり抜き肋骨を切除して胸腔内を開き、胃瘻造設手術を施行したこと、同年九月一六日両医師により食道瘻治療のため胸壁を陥凹させる胸廓成形手術と食道穿孔閉鎖手術が行われたが、成功しなかつたこと、昭和三一年一月二四日再度食道瘻孔の閉鎖手術が行われたが、また成功しなかつたこと、その後吉田昇、花房節哉両医師によつて食道穿孔閉鎖手術が二回施行されたが、いずれも失敗に終り、結局昭五は、昭和四二年一一月一七日食道瘻等の後遺症を残したまま同療養所を退院したこと、昭五は、昭和四八年一一月二六日死亡したこと、以上の事実は、いずれも当事者間に争いがない。
2 前記1の争いのない事実、ならびに、<証拠>を総合すると、以下の事実を認めることができ<る。>
(1) 昭五は、昭和二六年三月亀岡保健所の集団検診で肺結核(左肺浸潤)と診断され、しばらく自宅で安静療養した後就労したが、昭和二八年二月喀血し、再び自宅療養した後就労したところ、同年一一月二五日再度の大喀血を来たしたため、以後安静療養を続け、昭和二九年四月二五日南丹病院に入院し、続いて同年五月一九日宇多野療養所に入院した。入院後数日微熱があつて、三日間血痰を喀出して結核菌を排出する状態であり、同月二〇日撮影の胸部レントゲン写真では右肺上葉には浸潤陰影の病巣の中に空洞が二個存在し、下葉には滲出性病変が認められ、左肺にも雲影状の陰影が認められ、昭五の病状としては急性の滲出性結核病巣が進行中の状態であつた。
(2) 宇多野療養所では、結核予防審査会の許可を得て同月二四日から八月一六日まで昭五に対し、パスを毎日一〇グラム、ストレプトマイシンを週二回、一回一グラムの割合で投与し、一旦中断の後再度右許可を得て、九月二七日から一二月二五日再び右同様の投与をなした。
ところが、昭五は、同年八月さらに一一月にも血痰、血腺を喀出し、また、入院後排菌が続いていてその量は増大しており、入院前から化学療法を受けているにもかかわらず排菌が止まらないことから、昭五が排出する結核菌は抗結核剤耐性菌と推定された。そして同年一二月二四日撮影の昭五の胸部レントゲン写真では左肺は撒布性病巣が認められるだけで、病巣は縮小傾向にあつたが、右肺上葉にあつた空洞はほとんど上葉全体を占める程の巨大な空洞(約五×三センチメートル)となり、さらに右肺下葉肺門部付近にも新たに約2×1.5センチメートルの大きさの空洞ができているのが認められ、入院時に比べて病巣が増悪している状態であつた。そこで、入院時の内科主治医の稲葉通信医師、外科医長の香川輝正医師、外科医師鹿島栄造ら数名の医師らによつて昭五の病状、治療方法に関する検討、協議がなされ、その結果右病巣のある肺葉の切除手術が必要と判断され、昭五の同意を得て施行されることになり、昭五は昭和三〇年一月一三日内科から外科へ転科し、鹿島栄造が主治医となつた。
(3) かくて昭和三〇年二月八日香川医師が執刀者、鹿島医師が助手となつて、昭五に対し次の順序で肺切除手術が施行された。すなわち、まず気管内挿管による全身麻酔がなされ、次いで巨大空洞のある右肺上葉が切除、摘出され、続いて新たに空洞のできた右肺下葉の第六区域のみの切除がなされたところ、すでに第七区域以下の底区域にも右空洞がかかつていることが判明したため、結局下葉全部が切除、摘出された。そして、右肺上葉、下葉各気管支断端部位は当時一般に用いられていたスゥイート氏法(絹糸で約一ないし1.5ミリメートル間隔で縫合する。)により縫合され、さらに肋膜またはその近くの組織を用いて縫合部が被覆された。
ところで、昭五は、術前の肺活量二七〇〇cc(正常人の約六七パーセント)、呼吸停止時間二七秒と肺機能が弱く、これ以上肺機能が低下すると肺性心不全を引き起こす危険もあつたので、それを防止する必要があつた。そして、昭五の右肺中葉は、術前のレントゲン写真(背腹方面からの平面写真、側面方面からの断層写真両方)でも病巣らしい陰影は見あたらず、鹿島医師が術前気管支鏡で内腔を検査したが異常なく、また、手術中の香川医師の視診、触診によるも病巣は認められず、さらに鹿島医師が全身麻酔吸下する際加圧操作して中葉を膨張させたが空気漏れなどの異常なところがなかつたので、健常であると診断した。その結果、昭五の肺機能の低下を防止するため健常な肺野は少しでも多く温存しようという意図から、右手術に際しあえて中葉を切除することなく残置させた。
(4) 第一次肺切除手術後、昭五は三八度前後の高熱が続き、右胸腔内の滲出貯溜液が多かつたので、二月九日から一一日までの三日間は胸腔内にチューブを挿入し続けて貯溜液の吸引、排出、排気が行われ、チューブ抜去後も連日胸腔穿刺によつて滲出液の排出が続けられ、さらにペニシリン一日六〇万単位の筋肉注射が毎日行われ、またストレプトマイシン一グラムが、二月一四日までは毎日、その後は週二回の割合で投与された。同月一五日には胸腔容積の縮小をはかるため右横隔膜の神経を切断して右横隔膜を挙上する手術が行われ、その後も連日胸腔穿刺による排液が続けられていたが二月一一日以後排気がなかつたところ、三月七日滲出液の排出以外に新たに約一五〇ccの排気が認められたため、気管支瘻の発生が診断され、さらに胸腔内感染による化膿症の膿胸の発生が認められた。
(5) そこで同月一五日右気管支瘻の治療のため、再度香川医師の執刀、鹿島医師の介助で昭五に対し肺切除手術が施行された。そして、昭五の右胸部を切開したところ、右肺上葉、下葉各気管支切断端部位に瘻孔が存在し、周辺の部位は壊死に陥つており、瘻孔を再縫合して閉鎖しても再開は避けられない状態であつた。また、残置した中葉は滲出性の膿に囲まれて硬化し、無気肺状態で呼吸機能を営んでいなかつた。そこで、両医師は、上葉、下葉気管支瘻孔部位よりもさらに中枢部の右側主気管支の健常部位で新たに切断、縫合し、中葉を切除摘出し、さらに膿胸腔内洗浄のため肋膜醸膿膜の剥離を行つた。昭五は、術前から三八度前後の高熱が続いており、全身状態が悪化していたため、右手術に際し、血圧が最高五八まで低下してショック状態に陥り、また中葉等が強く癒着していて中葉、肋膜醸膿膜の剥離に困難を来たし、手術は七時間にも及んだ。
(6) 右手術後二、三日間はドレンを胸腔に挿入して持続して滲出液を吸引、排出し、連日ペニシリン六〇万単位が注入されたが、一週間は三八度近い高熱が続いており、その後はやや熱が下がつて全身状態が改善する兆がみえていた。ところが昭五は、三月二六日の昼ころ激しい咳嗽発作を起こし、それに伴つて血痰を喀出し、さらに夕方には約三〇〇ccの喀血を来たして呼吸困難に陥つたため酸素吸入し、強心剤や栄養輸液が注入された。そして、その後三、四日血痰の喀出があり、再び高熱が続いて全身状態が悪化し、再び胸腔内に滲出液が増量して濁つてきたので、香川医師らは膿胸の再発を疑い、四月九日再びドレンを胸腔に挿入して滲出液を吸引排出してそれを同月三〇日まで続け、また、同月一五日から連日胸腔内洗浄を行つたが、滲出液の貯溜が続いて膿様化し、貯溜量が増えて排膿が一日一〇〇ccに及ぶこともあり、極めて重症の膿胸が再発するに至つた。また、そのころ第二次肺切除手術で切断、縫合した気管支の再開(気管支瘻)が起きた。その後昭五の全身状態は不良で、連日排膿と胸腔内洗浄、ペニシリン注入が続けられ、さらにストレプトマイシン、パスの投与も行われた。
(7) 昭五は、八月一日突然吐気を訴え嘔吐があつたところ、同月二日鹿島医師が昭五の胸腔内を洗浄して排膿した際、食物残渣を認め、食道瘻孔の発生と診断するに至つた。
そこで香川、鹿島両医師は、同月三日昭五の右胸壁前側方から第三、第四肋骨を各五センチメートル位切除して胸腔を切開したところ、中央食道のやや下方の、右下葉肺静脈の縦隔接合部に相当する高さのところに大きさ小豆大の穿孔を認めたので、右穿孔部分の縫合閉鎖を試みたが、周辺粘膜がただれ周囲と強く癒着していて縫合できなかつたため、とりあえず胸腔を外界に開放したままガーゼを使つて胸腔内と食道瘻孔周辺の浄化をはかることとし(膿胸開放療法)、同時に腹壁を通して直接胃内に食物を送るための胃瘻造設手術を施行した。
(8) その後胃瘻を介しての栄養改善、胸腔内洗浄を続けたことで昭五の発熱は次第に治まり、全身状態も改善されてきたので、九月一六日昭五の第二肋骨から第七肋骨までの肋骨を背部から切除し、右胸腔を外側から陥凹させる胸廓成形手術を施行し、同時に胸壁筋肉を剥離切断して有茎弁として胸腔内に充塞し、食道穿孔部の閉鎖を行つたが、穿孔周辺部が著しく脆弱していて成功しなかつた。その後前記1に記載のように、昭五に対ししばしば食道瘻孔の閉鎖手術が施行されたが、いずれも成功せず、結局食道瘻孔は閉鎖しないものの、肺結核は治癒したものと認められ、昭五は昭和四二年一一月二七日宇多野療養所を退院した。しかるに昭五は、その後肺性心不全にかかり、これが原因で昭和四八年一一月二六日死亡するに至つた。
三そこで以上の診療経過に基づき、被告の履行補助者たる担当医師らが昭五の健康改善に向けてその時点の医学水準に照らし適切、妥当な診断と治療方法を実施するという診療契約上の債務の履行に欠けるところがあつたかどうかにつき、原告らの指摘する個々の問題点にあたつて逐次判断することとする。(なお原告らは、担当医師らにおいて昭五を健康体となすべき債務を診療契約上負担していたと主張するが、このような見解を採ることはできない。)
1 原告らは、昭五の病巣は広汎で大きな空洞があり、薬剤耐性菌を大量に排出している状態であつて、肺切除手術に適応した身体でなく、また右のような病状の患者は手術後治療が極めて困難な気管支瘻や膿胸を併発する危険性が高かつたから、肺切除手術のような危険な治療方法をとるべきではなかつた旨主張する。乙号証(昭和三六年八月発行の日本胸部外科学会雑誌第九巻第八号)によると、昭和二八年から昭和三四年の間の内外諸家手術成績では、肺切除手術の死亡率が0.3ないし20.4パーセント(平均6.2パーセント)で、抗結核剤耐性菌排出者の手術後気管支瘻、膿胸等の合併症を発生する割合は29.5パーセントあると報告されており、当時結核患者に対する治療としての肺切除手術は、常に必ずしも万全の方法とはいえなかつたこと、また、昭五の当時の症状は前記のとおりであつて、十分に手術に適応した良好な状態ではなかつたことが明らかである。
しかし、証人の各証言、鑑定人永井純義の鑑定結果によると、当時抗結核剤としてはストレプトマイシン、パスの二種類のみが開発、使用されているだけで、ヒドラジッドが試験的に使用され始めたにすぎぬ状況であり、しかも右二種類の薬剤の使用には結核予防委員会の許可が必要で制限されており、化学療法にも限界があつたことから、昭和二九年ころから結核治療として肺切除手術が一般化し、麻酔技術、手術手技の発達向上によつて昭和三〇年ころは数多く行われていたこと、昭五は、発病後昭和二七年一〇月上旬から昭和二八年一月下旬まで、同年四月上旬から八月までの各期間ストレプトマイシン、パス投与による化学療法を受け、宇多野療養所入院後も前記のように八ケ月間化学療法を受けていたにもかかわらず排菌が止まらず、その量も増加していて上記の抗結核剤に対して耐性を示す結核菌を保有していたものであり、これ以上化学療法を続けていても効果が期待できなかつたばかりでなく、薬剤による副作用の発生も懸念されたこと、昭五の肺結核の症状は巨大空洞を抱えた重症型に属するものであるところ、「日本胸部臨床」第三二巻第九号で昭和四二年から昭和四七年までの持続排菌者の転帰が報告されているが、死亡例は32.6パーセントであり、昭五のような広汎に空洞のある重症例では死亡率は48.7パーセントであつて、昭和四〇年代でも死亡率は相当高かつたものであり、昭和三〇年代当時、昭五に対し効果の薄い化学療法を続けていても病巣が自然増悪して、右肺のみならず左肺も悪化し、ひいては肺以外の器官にも結核菌が感染し、これが窮極的死亡の原因となる公算が大きいと見られたこと、他方、昭五は入院後安静療養を続けてきたため体重は増えて全身状態は改善される傾向にあつて、左肺は病巣が若干縮小しており、決して完全な手術適応の身体ではなかつたが手術には充分耐え得る全身状態であり、肺切除手術を施行するには適当な時期にあつたことが認められる。これらの事情を勘案すると、昭五に対し肺切除手術を施行した点について香川医師らに注意義務違反を認めるのは相当でない。
2 原告らは、香川、鹿島両医師が昭五の右肺中葉にも結核病巣があつたのに、第一次手術に際しこれを切除せずに残置したため、ここから排菌して気管支断端部に感染した旨主張する。
しかし、<証拠>によれば、当時の医療技術では、レントゲン写真によるも手術中の視診、触診によるも、肉眼で見える程度の細葉大以上の結核菌を発見することはできても、術前、術中にそれ以下の顕微鏡で見なくてはわからない程度の結核菌を発見することは不可能であつたところ、前記認定のように、香川、鹿島両医師は第一次肺切除手術にあたつて、術前、術中可能な範囲で昭五の右肺中葉における病巣の存否を検査、診察し、病巣がないと判断して残置したものであり、中葉をあえて残した理由は前記のように昭五の肺機能の低下を防止するためであつて、右措置をとつたことを非難することは当らない。原告らは、昭五の右肺上、下葉に空洞があつた以上中葉にも結核病巣が存在しなかつたはずはないと主張するが、右見解は推測によるものであつて確たる証拠に基づくものではなく、採り得ない。
3 原告らは、第一次肺切除手術の際、香川、鹿島両医師の気管支断端縫合、被覆が不完全だつたため、結核菌が感染して気管支瘻が発生した旨主張する。
しかし、<証拠>、鑑定人永井、同宮本の各鑑定の結果によると、次の事実が認められる。
気管支瘻とは気管支の断端を縫合した部分が再開して孔が生ずる状態をいい、昭和三〇年ころの肺切除手術後の発生率は膿胸(胸腔内に結核菌または一般化膿菌が感染して生ずる化膿症)と合わせて約三〇パーセント前後あつたが、当時はまた気管支瘻の発生原因も明らかでなく、その後薬剤耐性菌の大量持続排出患者に多く発生することが判明し、また、断端部の縫合には絹糸を使用するのが通常であつたが、これによると発生率が高いと認められ、昭和三五年ころからは縫合にナイロン糸が使用され始めた。気管支瘻の発生の要因としては、薬剤耐性菌の存在、多量排菌の持続、気管支断端結核、肺切除後死腔の残存、手術手技等諸種の要因が考えられ、発生原因としては、①気管支断端部に薬剤耐性菌が感染する。これはさらに手術中の病巣のある肺葉操作の拙劣さから胸腔内を汚染し、気管支へ感染する場合や、病巣の切り残しがあつて、そこから、また反対側の肺の病巣から結核菌が感染する場合等がある。②肉眼的に見えない程度の結核菌が気管支に残存していて、その気管支を切断したことで結核菌が漏出、感染する。③気管支断端部の縫合、被覆が不完全だつたため、縫合した部分が再開する。などが考えられ、患者の全身状態、抵抗力との関係から諸々の要因が競合して発生する。肺切除手術の場合、現在の医学水準でも肉眼的に見えない程度の結核菌を残置したり、手術中僅かな結核菌が漏出してひいては胸腔内に感染する事態は程度の差こそあれ避けられず、現在は二次抗結核剤を併用することで気管支瘻の発生を防止し得るが、当時は抗結核剤が二、三種類しかなかつたので、耐性菌排出患者の場合特に感染率、即ち気管支瘻等の発生率が高かつた。そして、香川医師は、すでに約三〇〇例にも及ぶ肺切除手術を施行してきていて、肺切除手術に堪能しており、本件手術の縫合は一般に用いられていたスウイート氏法によつて行われた。
以上を勘案すると、昭五の気管支瘻は香川医師らの縫合・被覆が不完全だつたために発生したとは認められず、かえつて気管支断端部に肉眼的に見えない程度の結核菌が残存していて、それが縫合に使つた絹糸に感染し、周囲に小さな結核性の膿瘍が生じ、壊死が広がつて気管支断端部が開いたとの疑いも強いのであつて、結局気管支瘻発生について香川医師らに非難されるべき過誤は認められない。
4 原告らは、第二次肺切除手術における縫合不完全、気管支断端部処理の不手際から、昭五に気管支瘻が発生してその結果三月二六日の大喀血を来たし、これが膿胸、食道穿孔を併発させた旨主張する。そしてこれに対する被告の主張は、昭五の左肺門部の急性悪化によつて喀血が起こり、その後呼吸困難になつて全身状態、抵抗力が低下した結果膿胸が発生し、それが気管支断端部に及んで気管支瘻を再発させたというのである。
気管支瘻についての肺切除手術後の発生率や原因、発生する経緯は前記のとおりであつて、諸々の要因が競合し、患者の全身状態との関係で発生するものであるところ、<証拠>、鑑定人永井、同宮本の各鑑定結果によると、昭五は第一次肺切除手術後発生した気管支瘻、膿胸に伴い、三七度の高熱が続いて全身状態が悪く、第二次肺切除手術中に血圧が著しく降下してショック状態に陥つたりして手術後の全身状態は不良で抵抗力も弱つていたのであり、昭五の右一般状態から考えると昭五に貧血、低蛋白血症が起きていた可能性もあり、右から考えると、結核菌や一般化膿菌が胸腔内に感染して膿胸が発生し、さらに脆弱している気管支断端部に及んで縫合が開いた可能性も考えられるし、また、胸腔内に結核菌か一般化膿菌があつて気管支断端部周囲が汚染されて縫合不全が起きたことも考えられる。三月二六日に起きた喀血が左肺の病巣の悪化によるものか気管支瘻発生によるものか必ずしも明らかでないが、<証拠>によると、四月五日撮影の昭五の左肺のレントゲン写真による所見では、左肺門部付近に空洞の存在を推定させる輪状陰影があつて、明らかに左肺の病巣は増悪していることが認められ、これによると、右喀血は昭五の一般状態、抵抗力が弱まつていたため左肺の病巣が急速に悪化したため起き、その結果昭五の全身状態、抵抗力がさらに低下して、胸腔内感染が起き、それが気管支断端部にも波及して気管支瘻が発生した疑いも強い。
以上の次第で、手術に際し香川、鹿島両医師に縫合が不完全な点その他、病巣の処理について不手際があつたという原告らの主張事実は、証明不十分といわざるを得ない。
5 原告らは、昭五は第一次肺切除手術直後から度々排気があり、気管支瘻の発生を疑わしめるような症状を呈していたのに、鹿島医師らにおいてその発見が遅れたため気管支瘻が極度に悪化した旨主張し、<証拠>によると、昭五は、二月九日に一五〇cc、三〇cc、一〇〇ccの三回、同月一〇日に一〇〇cc、一五〇ccの二回排気があつたことが認められる。
しかし、右<証拠>によると、右各排気のあつた時の昭五の胸腔内の内圧は、いずれも+2〜-14cm水柱、-16〜-2同、+0〜-16同、-12〜-16同、-18同と強陰圧を呈しておるところ、証人香川の証言によると、肺切除後にできた胸腔に滲出液や気体が貯溜するため、手術後数日は注射器を使つたりしてこれらを吸引排出するが、その際気管支断端部の縫合が完全になされていると胸腔内の内圧は陰圧になるというのであり、手術直後にみられた右排気はこうした性質のものと推測されたのであつて、手術直後に排気があつたからといつて当然に気管支瘻が発生しているということにはならないことが明らかである。そして、前記認定のようにその後二月一一日以降全く排気がなかつたところ三月七日に至つて新たに排気一五〇ccがあつて気管支瘻を診断したというのであり、それ以前にその他昭五に気管支瘻が発生していると疑わしめるような異常な症状を呈していたとは認められない。原告らの上記主張は、採ることができない。
6 原告らは、香川医師らが第二次肺切除手術中昭五の食道を損傷したため、食道瘻が発生したと主張する。
しかし、<証拠>によると、第二次肺切除手術において香川医師は昭五の右気管支と肺動脈の二ケ所を切断したが、右切断部位と食道の間には奇静脈が走行していて、それを突破して食道を損傷すれば大出血が起こり、また食道内側の粘膜が外へ漏れたりするので、手術中容易にそれとわかりその手当をするはずのところ、実際はそのような事態は発生しなかつたこと、さらに、食道損傷して穿孔ができると喫食できなくなるところ、昭五は右手術直後から経口摂食していたことが認められ、以上に照らすと、香川医師らが昭五の食道を損傷したとは認められない。
次に、原告らは、第二次肺切除手術中香川医師らが昭五の縦隔、食道周辺部を不要に損傷した結果、その部分が脆弱化し、それがため膿胸による炎症が食道壁に及び、容易に食道穿孔を生せしめた旨主張する。
鑑定人永井、同宮本の各鑑定結果によると、手術後膿胸、気管支瘻が発生し、その経過中に食道瘻が併発した症例は極めて少なく、まれな事態であることが認められ、昭和三六年の「胸部外科」第一四巻、昭和四〇年の同第一八巻で同旨の報告がなされているが、前者では、食道瘻の発生原因として「長年の膿胸が次第に縦隔膜を侵し、食道壁を穿孔する。」としているが、さらに、手術中に縦隔膜を損傷する点、全肺切除後の食道が術側胸部側に牽引されて偏在する点、食物が食道の屈曲している部分の角に激突する点を食道瘻発生の誘因として挙げている。後者では食道瘻の発生機序について諸種の症例報告がなされているが、結論として、気管支瘻を伴う結核性膿胸を発生母地として、結核性膿の汚染による食道壁の脆弱化、外部からの侵食による穿破を挙げ、さらに加療変形後の食道の位置的変方(右方偏位)、手術時の損傷の有無等諸因子が交錯して発生すると報告している。
本件についてみるに、前記のように第二次肺切除手術中昭五は血圧が著しく降下してショック状態に陥り、出血も相当量あつて手術は長期間に及んでいたのであり、証人香川は、胸腔内に膿胸が発生していて中葉が強く胸壁に癒着していたため、また膿胸の治療のため胸腔内の肋膜醸膿膜(膿苔)を完全に切除排出しなければならなかつたため、それらの剥離に困難を来たしたと述べている。従つて、中葉や肋膜醸膿膜剥離のために手術操作が食道壁の周囲まで及び、食道壁が脆弱化していて抵抗力が弱まり、膿胸による炎症がそこに波及したりして食道が穿孔するに至つたとの疑いも払拭することができない(鑑定人永井の鑑定結果)。しかし、<証拠>によると、膿胸、気管支瘻の治療として、中葉を切除摘出(右肺全葉切除)し、胸腔内の肋膜醸膿膜を剥離排出する場合程度の差こそあれ縦隔膜を傷付ける事態は避けられないのであり、特に患者の全身状態が極めて悪く、中葉等の剥離排出が困難であつた本件においては、ある程度は手術操作が縦隔膜側にも及んでいたとみるのが相当である。原告ら主張のように仮に縦隔膜の損傷があつて、結核菌が食道壁へ波及しやすかつたとしても、それが正当な手術操作において不可避的にそうなつたのか、不要な損傷がなされたためか不明であり、逆に手術後の昭五の膿胸は極めて重篤で、四ケ月半続いており、大喀血も起こして全身状態は不良で抵抗力が著しく低下していたことから考えると、胸腔内に感染した結核菌または化膿菌がリンパ腺に感染して膿瘍を作り、その病変が食道壁へ波及して食道穿孔が発生した疑いも強い。
以上によると、結局本件食道瘻も諸々の要因が競合して発生したとみるのが相当であつて、手術中縦隔膜を必要以上に損傷したとの事実は、その確証がなく、食道瘻の発生について香川医師らを非難すべき事由はない。
7 原告らは、第二次肺切除手術後昭五に重篤な膿胸が続いている間に早期に胸腔開放療法を施して食道穿孔の発生を防止すべきだつた旨主張する。
しかし、証言および鑑定人永井の鑑定の結果によると、昭五の膿胸は重症であり、三八度前後の高熱が続いていて全身状態が悪く抵抗力も弱まつており、このような病状にある昭五に対し、多少なりとも身体への侵襲度のある開胸手術を行い、胸壁を切開して胸腔を外界に開放すると外部から他種雑菌の混合感染を招く恐れが強くあり、また膿が一時的に大量に外へ排泄されるので血液内の蛋白が損失されてかえつて全身状態が悪化することも考えられ、さらに昭五の左肺の病巣は増悪しているのでいつまた喀血するかわからない状態であり、昭五に対し胸腔開放療法を行うのは危険であつたことが認められる。また、昭和四〇年の「胸部外科」第一八巻では膿胸が発生した患者に対し開放療法を施行したが、治癒せず、食道瘻が発生して死亡するに至つた症例三例が報告されており、膿胸が発生して早期に開放療法を行つても必ずしも効果があがるとは限らないことを勘案すると、香川医師らが、昭五に膿胸が続いている四ケ月間胸腔開放療法をとらずに排膿、ペニシリン注入等の療法を続けたことに非難されるべき点はない。
8 原告らは、早期に食道瘻を発見して適切な治療を行うべきであつたと主張する。
しかし、前記のように昭五に食道瘻孔が発生したのは昭和三〇年八月二日に至つてからであり、それまでは昭五は普通に経口摂食していたのであつて、食道穿孔を予測できるような兆候はなく、また、鑑定人宮本の鑑定結果によると膿胸から食道瘻孔が発生する頻度は極めて低く、当時重篤な膿胸が持続していたからといつて直ちに香川医師らに食道瘻孔発生の可能性を考えて食道造影等の諸検査を実施するよう要求するのは無理であり、さらに重篤な膿胸が続いている場合検査に食道鏡を使うとそれが原因で穿孔を生することがあることが認められ、原告ら主張の諸検査を早期に行わなかつたことについて香川医師らに義務違反はない。
四以上の説示によれば、被告は、昭五に対し診療契約上の債務不履行を負つたものということができず、右と反対の前提に立脚する原告らの被告に対する損害賠償の請求は、その余の点に対する判断をまつまでもなく理由がないものである。<以下、省略>
(戸根住夫 大谷種臣 木下秀樹)